東北・北海道地方で大きな地震が続きました。
被災された方々には、心よりお見舞い申し上げます。
厳寒の中での避難生活や片付け、地震が続くことへの不安。
体力的にも精神的にも非常にお辛い状況だと思います。
一日も早く平穏な日常に戻られますよう、心よりお祈り申し上げます。
私自身、地震のニュースに触れるたびに、「明日は我が身」という言葉が29年前の記憶と重なり、生々しく胸に迫ります。
それは、今もなお薄れることのない感覚です。
今回は、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神・淡路大震災で被災した当時の記憶を、改めて振り返ってみたいと思います。
震災前夜、何気ない日常の中にいた私
平成7年の震災当時、私は大学生。
母、姉家族と一緒にマンションの11階に住んでいました。
前日の1月16日。
その頃付き合っていた恋人と夜までデートをし、翌日の朝食用に行きつけのパン屋でパンを買って帰宅。
なんの変哲もない、ごく普通の夜。
ベッドに入り、次の日の予定をぼんやり考えながら眠りについたのを覚えています。
「当たり前の日常」が、次の瞬間に音を立てて崩れ去るなど、想像もしていませんでした。
午前5時46分、「夢か現実か」を問う激震
翌日—午前5時46分。まだ暗闇の中、地震が起きました。
まず、「ドン!」と突き上げるような強烈な縦揺れ。
その直後、激しい横揺れが始まり、それが本当に長く続いたように感じられました。
自分がどの時点で完全に目が覚めたのか、定かではありません。
ただ、あまりにも激しい揺れと轟音に、現実感がまるでなく、最初に頭をよぎったのは「心霊現象か?ポルターガイストか?」という、今思えば荒唐無稽な考えでした。
「これは夢だ。早く目覚めなきゃ」と、頭のどこかで現実を拒否していたのだと思います。
しかし、ベッドの上部に置いていたラジカセが頭に落ちてきた瞬間、あまりの痛さに「これは現実に起きていることなんだ」と、はっきり我に返りました。
そうこうしている間も、揺れは全くおさまりません。
「このまま永遠に続くんじゃないか」 そう思い始めたところで、ようやく静寂が訪れました。
暗闇の中、外へ出るまでの記憶
揺れがおさまった瞬間、とにかく家族の安否を確認しなければと、真っ暗な部屋の中で手探りでドアを探しました。
しかし、ドアの向かい側に置いていた本棚が倒れてつっかえ棒になってしまい、ドアが開きません。
部屋の中がどうなっているか分からないまま、とにかく体当たりで本棚をどかし、ようやくドアを開けることができました。
私の部屋は玄関のすぐ横だったので、リビングへのドアを開けながら「みんな大丈夫!?」と叫んだつもりでしたが、恐怖でほとんど声が出ませんでした。
奥から出てきた家族と一緒に、とにかく外へ出ようと玄関へ急ぎましたが、玄関も真っ暗で自分の靴がどこにあるか分からない状態。
足に引っ掛けたものを履き、転がり出るように外へ出ました。
当然エレベーターは使えません。
上着を着る余裕もなく、パジャマのまま、非常階段で11階から1階まで下りました。
寒さもありましたが、何より恐怖で足がガクガクと震えていたことを、今でもよく覚えています。
夜明けに突きつけられた現実と、家の中の惨状
夜が明けるまで1階で待機し、明るくなってから再び階段で11階まで上がり、自宅へ戻りました。
11階の廊下からは、いつもなら電車が走る様子が見えます。
しかし、その朝目に飛び込んできたのは、レールを外れ横転した電車の姿。
その光景を目にした瞬間、想像を絶する事態が起きている現実を、否応なく突きつけられました。
部屋に足を踏み入れてからは、衝撃の連続です。
冷蔵庫の中身はほとんど外へ飛び出し、床一面に散乱。
部屋の奥にあったはずのテレビは、リビングの入り口付近まで吹き飛ばされていました。
食器棚の中の食器も、割れずに残っているものの方が少なく、足の踏み場もない状態。
母が寝ていた部屋では、布団の両側に置いてあった箪笥が、支え合うように「ハの字」に倒れ込んでおり、母はそのわずかな隙間に入る形で難を逃れています。
姉夫婦の部屋は倒れる家具が比較的少なかったものの、姉は地震の直後、1歳だった姪にとっさに覆いかぶさったと、後から聞きました。
当時飼っていた猫の姿がなかなか見つからなかった時は、本当に焦りました。
名前を呼んでも出てこず、家具の下敷きになっているのではないかとビクビクしながら片付けを続けていると、突然、押し入れの奥から姿を現したのです。
その瞬間、家族全員が心底ほっとしたことを、今でもよく覚えています。
当たり前だった生活が、止まった日々
地震後、電気は比較的早く復旧しました。
テレビをつけてニュースを目にした時の衝撃は、今でもはっきり覚えています。
電話も、地震当日の午前中までは何とか繋がり、恋人と無事を確認することができました。
しかし、その後は固定電話からかけてもほとんど通じなくなります。
部屋の片づけをしたところまでは記憶に残っているものの、それから数日間、どのように過ごしていたのかは記憶が曖昧です。
目の前の状況を受け止めきれないまま、ただ時間だけが過ぎていったような感覚でした。
私たちが住んでいたマンションは、建物にひびが入った程度で、幸いにも倒壊などの大きな被害はありませんでした。
しかし、生活の面で最も困難だったのは、ガスと水道が長期間にわたって復旧しなかったことです。
同じ市内に住む祖父母の家ではガスも水道も使えたため、家族でしばらく身を寄せることになりました。
水道が復旧したのは、確か二か月ほど経ってからだったと思います。
外出先から戻った私に、母が嬉しそうに「トイレの水、流れるようになったよ」と報告してくれた場面は、今でも印象に残っています。
電気、ガス、水道―完全に元の生活に戻るまでには、想像以上に長い時間がかかりました。
一時的な断水や停電を経験したことはあっても、生活の基盤となるライフラインがすべて止まるという事態は、初めてのことです。
寒い時期に暖房が使えないこと、温かい食事がとれないことは、身体に大きな負担となります。
風呂に入れなくても大人は何とかなりますが、やはり赤ちゃんは清潔を保つ必要があるし、トイレが流せないと我慢してしまい、結果的に体調が悪くなる人もいる。
当たり前のように使っていたものが突然使えなくなることで、直接的な被害だけでなく、生活全体に及ぶ影響があるのだと、身をもって知ることになりました。
静かに備え、日常を大切にする
災害は、いつ起こるか分かりません。
だからといって、不安に飲み込まれながら日々を過ごすことが正解だとも思えません。
29年前の経験が教えてくれたのは、「普通の毎日」は決して当たり前ではない、という事実。
そして、その事実を忘れないために、意識的に立ち止まり、思い出し、備えることが必要なのだと感じています。
過去の記憶を恐怖のまましまい込むのではなく、これからの暮らしを守るための「教訓」として手元に置いておく。
静かに備え、過度に怯えず、日常を大切に生きていく。
それが、阪神・淡路大震災を経験した私が、今選んでいる向き合い方です。


